大澤 忠 先生を偲んで
骨軟部放射線研究会名誉世話人 大澤忠先生は、令和2年12月20日、享年90歳で逝去されました。本研究会はもとより、医学界の中で多岐にわたって活躍された大澤忠先生の追悼文を自分が書くことは適切ではないかと思いましたが、先生の大学退職後も公私にわたって長くご指導いただいた縁により、哀悼の意を述べさせていただきます。
先生は、昭和5年2月24日北海道にお生まれです。昭和28北海道大学医学部を卒業、札幌医科大学研究生、米国クニアキ病院インターン・レジデント、Yale大学レジデント、札幌医科大学助手、北海道大学放射線科助教授、米国ノースカロライナ大学客員研究員、米国ウエストバージニア大学客員教授を経て昭和48年10月に自治医科大学教授、同大学附属病院放射線科科長、中央放射線部部長に就任されました。平成3年8月自治医科大学附属病院副病院長に就任され、平成5年12月に自治医科大学を退職。平成7年7月に自治医科大学名誉教授。平成6年1月から平成8年3月まで指導医療官(厚生技官、地方技官)を務められました。
骨軟部放射線研究会は、平成2年(1990年)、故片山仁先生、故大場覚先生とお三方で創立されました。
先生は放射線医学のすべての領域、診断学のみならず、中央放射線部におけるコ・メディカルの教育、組織のありかた、フィルム管理など、およそ現在の放射線科で行われているすべての事柄に深い見識をもち、かつそれを我が国に根付かせたお一人です。先生は、放射線医学(画像診断)の構築の一翼を担い、画像診断の発展と教育に貢献されました。中央放射線体制を導入し、検査の効率化、放射線科ならびに放射線科医の存在意義の向上に尽くされました。
先生は骨・軟骨・関節のエックス線検査の画像診断にも力を注がれました。先生は、細胞遺伝学・遺伝医学の故梶井正先生(山口大学名誉教授)と共著でPycnodysososis, Hurler/Hunter syndrome, Metaphyseal dysostosis (type Schmid)、Kabuki make-up syndromeなどに関する論文を多数上梓されています。Roentgenographic manifestations of Klinefelter's syndrome(AJR. Volume 112、1971)は、日本人の放射線診断医が骨系統疾患の画像診断について筆頭で書かれた論文の中でもおそらく最早期のものと思われます。
先生の編著による「新臨床放射線医学」は1990年に医学書院から上梓された、放射線科医による診断学テキストの古典であります。
ここに本研究会会員の敬愛を集められた大澤忠先生のご功績を偲び、心より感謝の意を捧げますとともに謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げます。
追記
追悼文での個人的なエピソードや不正確なご経歴を紹介するのは憚られましたので、追記という形で、大澤忠先生のお人柄、自分との関わりについて若干記したいと思います。
先生は旧制岩見沢中学4年時終了で北海道帝国大学予科医類に16歳で入学されています。同学年で最年少だったとお聞きしています(自分の記憶違いかもしれませんが)。追悼文で紹介した梶井正先生は大学の同期です。札幌医科大学からYale大学に行かれた経緯は残念ながら直接伺う機会はありませんでしたが、当時の状況からフルブライト・プログラム(当時はガリオア・プログラム)で渡米されたのではないかと思います。直接伺わなかったのは、なにより教授に一研修医(自分と大澤教授とは二回り違います)が昔話を伺うのが恐れ多かったためですし、大澤忠先生がご自身のことを話されなかったためです。大澤忠先生により近い方ならこのあたりの事情をよく知っておいでかと思います。なにかのおり、当時は、日本からアメリカに行くには、まず船でハワイに行き、そこで研修をうけてから、今度は飛行機で米本土に行かれたと伺ったことがあります。ハワイで生まれて初めてバナナを食べておいしかった、と言われたのが印象的でした。
大澤先生はYale大学放射線科では最終学年でチーフレジデントをされたと伺いました。敗戦国日本からきた研修医がチーフレジデントになるのがどれくらい大変なことか知るよしもありませんが、このことについて先生は淡々と話されていました。スタッフとレジデントの間に立たせるのに自分くらいがちょうど良かったのだろうというお話でした。自分が米国でレジデントをした経験から、確かにレジデントはスタッフにあれこれ文句をいうのはよく理解できます。しかし、そんなことでチェアーマンがJapaneseにチーフレジデントを任せるわけはありません。
先生がYale大学でのレジデント時代の裏話をされることはほとんどありませんでしたが、何度か思い出話を伺う機会がありました。たまたま、論文をよんでいたsequestrationの症例がカンファレンスで提示されて、自分がdiscussantに指名されて正解したというお話は大変印象に残っています。もちろん自慢話という意味では全くなく、つねに最新の論文を読んでおきなさい、という意味だったと思います。給料は月に十数ドルで(違っているかも)、病院の帰りに飲むビール(?)が旨かった話、その居酒屋で敗戦国の日本人に絡んできた他の客を、店主が「俺の客に何をするか」といってたたき出したこと、など。
大澤忠先生はかつてパイプタバコの愛煙家でありました。教授室からパイプタバコの甘い香りが漏れてきたを記憶している方もおいでかと思います。今ではとても考えられませんが、自治医科大学放射線科の読影室には灰皿があり(多分どの読影室にあったのでしょう)、大澤先生は、ゆったりとパイプをくゆらせて読影されていました。左手にパイプ、右手にはPhilipsのDictaphone。絵になる風景でした。パイプを片手に、ちょっと首を傾けて読影するのです。煙が天井に漂っているのを見て、photographic negative pulmonary edemaってこんな感じかと、好酸球性肺炎の所見を覚えた研修医もいました。一度、RSNAで先生に連れられて、シカゴのパイプタバコのお店にお供したことがありました。その時は大変楽しそうに店内をご覧になっていたのを思い出します。また、米国で客員教授をされていたころ、パイプタバコをできるだけゆっくりすうことを競う大会で優勝して新聞に載った、ことを伺ったことがあります。新聞の切り抜きがあったのですが、あれはどこにいってしまったのか、残念です。
私と同じ年代の学生、放射線科研修医は、医学書院から刊行された「新臨床放射線医学」で放射線診断学の勉強を始めた方が多いのではないかと思います。このテキストは、Paul and JohlのEssentials of Radiologic Imagingにも比肩すべきテキストではないかと思います。このテキストは、放射線診断学でsubspecialtyとGeneral radiologyをどうするかについて、大澤先生がだされた回答だったとのではないかと思います。大澤忠先生ご自身は、subspecialtyとgeneral radiologyを対立するものとしてお考えになってはいなかったと自分は理解しています。各subspecialtyの情報量が膨大になっていることから、General radiologyの限界を語ることは容易であります。しかし、先生はGeneral radiologyとsubspecialtyとを互いに相容れないものとはお考えになっていなかっと思います。放射線科医は患者のすべてを診るのは、放射線科医が医師として患者を診療する限り変わらないことであると伝えられたかったではないかと思います。余談ですが、「新臨床放射線医学」には韓国語版があり、これは自治医科大学図書館にもありました。印税はもらわなかったなと、大澤忠先生から伺ったことがあります。
本研究会は、追悼文で述べたように、片山仁先生、大場覚先生、大澤忠先生のお三方が創立されました。これは、Harold Jacobson、Ronald Murray、Jack Edeikenが創設した、International Skeletal Societyと似ているように思います。昔の人は威厳があったな、と思いたくなります。
先生のご冥福をお祈りしたいと思います。
杉本 英治 先生 (新上三川病院放射線科)